永平寺

永平寺は曹洞宗の大本山であり、禅宗の修行道場です。樹齢600年余りの杉木立に覆われた山の斜面、およそ33万㎡に70数棟の建物が回廊や階段で結ばれています。

中でも重要な建物は七堂伽藍です。
禅寺で七堂伽藍といいますと、山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、浴室、東司のことで、全国に数ある寺院の中でも完全な形の七堂伽藍を備えているところはわずかです。

永平寺は山号を吉祥山といい、開山は道元禅師、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏です。神奈川県横浜市の總持寺とともに曹洞宗の本山です。

永平寺には全国の門末寺院から選ばれた200名近い雲水達が厳しい修行を積んでいます。座禅堂の畳一枚で食事したり就寝したりします。極寒といえども足袋ははかず、寝る時は薄い布団を重ねて寝ます。

食事も粥と漬け物、麦飯や野菜の煮付けなど徹底した一汁一菜の精進料理です。

「4・9日」(しくにち)という毎月「4・9・14・19・24・29日」は、起床時間が遅くなり、頭を綺麗に剃る日でもあります。水とカミソリで剃りあいますので、新参の人は最初は血まみれになってしまうそうです。
※永平寺では精進カレーのメニューもあるそうです。

七堂伽藍

  • 山門
  • 仏殿・・・仏像を祀るお堂。本堂にあたる。
  • 法堂(はっとう)・・・他宗派でいう講堂にあたるお堂。お経の講議をする場所。
  • 僧堂・・・修行の根本となるお堂。修行僧が食事、睡眠、座禅をする。
  • 庫院(くいん)・・・台所にあたるお堂。庫裏ともいう。
  • 浴室・・・文字通りお風呂。
  • 東司(とうす)・・・トイレのこと。

道元禅師

道元禅師は正治2年(1200)、公卿の名門、内大臣・久我道親を父に、先の関白・藤原基房の娘を母に生まれました。
父は3歳で、母は8歳で死別し、13歳で比叡山に登って出家しました。

比叡山から三井寺や建仁寺を遍歴しましたが、日本の僧侶は彼に満足を与えなかったのでしょう。道元の目はさらに大きく中国へ向いていました。

貞応2年(1223)、24歳の時、明全とともに中国へ渡り、天童山に入り、如浄禅師という高僧について4年間修行し帰国しました。

しばらく建仁寺にとどまり、有名な「普勧座禅儀」を書いて座禅の心得を述べられ、後、深草の安養寺にこもって、正法の仏法、すなわち座禅の神髄を心ゆくまで身につけたのです。

34歳で宇治に興聖寺という本格的な禅寺を建て、10年間道を説かれました。道元の名声は日に日に高く、やがて貴族や上級武士達も出入りするようになりました。名利権門に近づくことを嫌った道元は、宇治が都に近いので、都から離れた山間部に座禅道場を開きたいと思っておりました。

ちょうどその頃、道元に深く帰依していた越前守護、波多野義重の熱心な願いもあり、寛元4年から永平寺を営み、10年間に渡って仏法を説きました。
その間、道元はほとんど永平寺から出ることなく、時の執権北条時頼から鎌倉に住むように勧められても応じなかったほどです。

日蓮は街頭に立って絶叫し、親鸞は村民達と膝を交えて教科に務めたのに対し、道元は深山にこもり、修行に務めました。

建長5年(1253)、健康がすぐれず、京都にいる信徒達の切なる勧めで養生のため京都に移りましたが、その年の8月28日、「活きながら黄泉(霊界)に陥る」と遺言をしたため、54歳の清らかな生涯を終えられたのです。

永平寺のおみやげベスト3

  • すりこぎ羊羹
  • 永平寺みそ
  • ごまどうふ

永平寺の画像

伽藍案内図

永平寺伽藍案内図

永平寺入り口

唐門

傘松閣内部

参昇格天井画

傘松閣天井画

雪囲いした山門

山門内部

山門内部

回廊の一部の階段

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