彦根城

彦根城は一名金亀城とも呼ばれます。これは平安の昔、このお城がある彦根山に彦根寺があり、本尊の観音像が金の亀に乗った姿であったため、山の名前を金亀山といったからです。

慶長6年(1601)井伊直政が関ヶ原の戦功により佐和山18万石に封ぜられますが、翌年42歳で亡くなります。嫡子直継が近くの金亀山を選び、慶長8年(1603)より約20年かけて工事をし、元和8年に完成しました。

周囲4キロと規模はさほど大きくはありませんが、築城技術の精巧さと輪郭の荘厳さは他に類がないといわれます。天守閣は高さ約24m、京極高次の大津城を移したもので、天平櫓は秀吉の長浜城を、二の丸、三重櫓は浅井長政の小谷城にあったものを移築したものといわれ、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の7カ国12大名の手伝い普請(天下普請)によって築城されました。

明治維新以後、彦根城も取り壊しが決定されましたが、明治11年、明治天皇北陸行幸の際、地元の訴えが聞き入れられて、取り壊しは中止され、再び井伊家に下賜されたのです。

現存天守を持つ12城のひとつで、姫路城、松本城、犬山城とともに国宝に指定されています。

彦根城 (滋賀県提供画像)

井伊直弼と井伊家

13代藩主井伊直弼は文化12年(1815)10月29日、彦根城二の丸槻御殿(楽々園)で誕生しました。父は11代藩主直中、母は愛妾富子でした。5歳で母が亡くなり、17歳で父を失った直弼は、その後埋木舎に住みますが、身分は300俵の捨て扶持、つまり彦根藩にとっては「どうでもいい」存在でした。しかし病弱な兄の直亮の死がその糸口をつけた「花の生涯」の始まりとなります。

嘉永3年(1850)、彦根藩主となった直弼は大老として幕閣に登り、さらに時代のありさまから考えて開国を断行しましたが、これに反対する水戸浪士の刃に倒れ、はかない最期を遂げました。

井伊直政が彦根に封ぜられた最初は18万石でしたが、のちに加増され譜代大名の中では最高となる35万石となりました。

譜代大名の中でも徳川四天王といえば、本多忠勝・榊原康政・井伊直政・酒井忠次ですが、祖先が藤原氏であるため、直政はいつも上位におかれていました。
江戸時代の井伊家は、5代6度の大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄となり、また他の有力譜代大名が転封を繰り返す中、彦根藩家は1度も国替えがありませんでした。

※直弼は11代直中の14男でしたので、普通であれば藩主の座に着くことはできなかったはずです。しかし井伊家は跡目相続争いを避けるため、嫡男以外は養子だす決まりがありました。ところが直弼は養子先も決まらずに、いつまでも彦根城内にとどまっていたところ、兄の急病のために急遽兄の養子になることで13代藩主の座におさまることになったのです。

埋木舎(うもれぎのや)

埋木舎 (滋賀県提供画像)

井伊直弼が不遇の青年時代を過ごした質素な屋敷。(修復による復元)

十一代藩主・直中の十四男として生まれた直弼は、300俵の捨扶持で、 17歳から32歳まで、この屋敷で過ごし、「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋れておらむ心なき身は」という和歌を詠み、 自らこの屋敷を「埋木舎」と名づけました。
将来に夢も希望もない身ではありましたが、直弼はこの時期に文武両道の修練に励み、 後に大老として、日本を開国へ導くまでになったのです。

※武士の一分のロケ地

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