日野町と蒲生氏郷

名神高速道路の竜王インターと八日市インターの間で渡る日野川を上流に向かったところに日野町があります。

三上山の百足退治をした俵藤太秀郷の子孫、蒲生氏の城下町で、天文2年蒲生氏郷の祖父、貞秀が日野城を築城し、以来3代50年の間栄えました。父の賢秀が近江の佐々木六角から離れて信長に仕えたとき、13歳の氏郷は人質として信長の居城岐阜城に送られました。氏郷14歳 の初陣(伊勢大河内城を攻める)では、大手柄をたて、このため信長は氏郷を人質としての身柄から解き放して、日野城に返しました。

本能寺の変では信長の妻子を日野城にかくまい、後豊臣秀吉に仕えます。氏郷は戦功をたて、日野城主6万石から伊勢松ヶ島12万石に加増され、さらに小田原征伐での功によって、会津42万石の大名となりました。

会津へ転封の時、日野から木地師などの職人を招き、会津に漆器、ろうそく等の産業を興しました。会津塗は日野の漆工が始めたものです。朝鮮征伐に出陣の時、武佐の宿場から故郷の綿向山をながめ、「思いきや 人の行方ぞ定めなき わがふるさとをよそに見んとは」の歌を残し、いつまでも生まれ故郷の日野を懐かしんだといいます。晩年の所領は92万石、惜しくも40歳で亡くなりました。京都の大徳寺にお墓があります。

蒲生氏が去ってからの日野は売薬などで知られるようになり、近江商人の町として活躍しました。

日野菜漬け

この蒲生氏郷の父、賢秀が日野の領内を見回りに出たときに、ふと道ばたで赤白の鮮やかな野草を見つけました。あまりの美しさに城中に持ち帰り、漬け物にさせて茶漬けを食べたところ、なかなか味が良いので日野菜と名付け、家臣に勧めて領内に広めました。後に漬け方は工夫され、日野菜漬け、エビナダイコン漬け、さくら漬けなどの名前で売り出させています。

日野商人

領主蒲生家の国替えで活気をなくした日野では、生活の活路を見出すため、人々は行商に出るようになりました。ほかの近江商人とは異なり、「千両たまれば新しい店を出す」という小型店経営に主流を置き、非常に多くの店を大都市はもちろ ん、関東一円の地方都市や田舎にまで出したことや、醸造業を営むものが多かったこと、「万病感応丸」と呼ばれる漢方薬の製造販売を行うなどの独自の商いを行ったため、彼らは日野商人と呼ばれました。

【参考】

  • 日野薬品工業・・・日野町内の製薬業者30数業者が、太平洋戦争中の企業整備令により合併して設立した会社。
  • 東野英治郎・・・出身地とされている群馬県富岡市は家業の造り酒屋(お店:出店)の所在地であり、実家は日野商人(近江商人)の家系である。ご存じ水戸黄門の初代黄門様。

近江牛

日野町周辺は昔より牛の飼育が盛んなところです。
平安時代のはじめ、帰化人がこのちに大移住して牛を飼い始めたのが有名な近江牛の起こりです。
地元で生産、または兵庫県の但馬や淡路、鳥取県から求めてきた優良牛を一年以上飼育して牛肉とします。
このように近江牛の歴史は古く、江戸時代には、牛肉が「養生薬」の名目で、味噌漬や干し肉として彦根藩から将軍家へ献上されていました。

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