伊藤忠兵衛

西明寺から琵琶湖方面に向かうと豊郷町があり、伊藤忠商事を起こしました豪商・伊藤忠兵衛の生家があります。

忠兵衛は14歳から兄の長兵衛のもとで呉服の卸や小売りを手伝っていましたが、17歳の時から中国地方、九州地方へ近江麻布や結城木綿などの行商に手広く歩いていました。

後、万延元年(1860)に独立し、同じ豊郷村の藤野八重と結婚しました。(20歳)ちょうど幕末の頃で、世の中は騒然としており、忠兵衛も形勢不穏な九州方面への取引は躊躇していたのですが、機を見るのに明るい八重は、こういう時代こそ知人や先輩を訪ねてはと夫の九州行きを促し、あらゆる苦難に耐えて商いに励み予想以上の成果を上げる事が出来ました。

その後忠兵衛はいつまでも行商の時代ではないと考え、明治5年に大阪に進出して店を開き、紅忠(べんちゅう)と名付けました。1883年(明治16年)、忠兵衛は店の暖簾に、丸の中に「紅」と印しました。これは「紅の字を真ん中に書いて◯紅という商標はどうですか」と言った八重の提案だったそうです。これが後の丸紅の社名の由来です。

忠兵衛は明治19年に早くも海外に手を伸ばし、翌年にはイギリス、ドイツに店員を出張させ、10年後には中国と綿や綿糸の貿易を営むまでになり、その間に近江銀行と保険事業に参画するにまで業績を伸ばしていきました。

一方八重も毎年3月の店員募集の際には、自ら立ち会って人物を見極め、殊に商人の悪筆は恥ずかしいことであると習字を習わせ、また大勢の丁稚の盆、正月のお仕着せや下駄まで心を配って多くの子供達(丁稚、店員のこと)を育ててきました。

忠兵衛は数々の事業を残し、伊藤忠商事、丸紅の基を築き、惜しまれつつ62歳でこの世を去りました。その後八重は104歳の天寿を全うするまで深く仏法に帰依したということです。

伊藤忠兵衛記念館

伊藤忠兵衛記念館内部 (滋賀県提供画像)

大手商社の伊藤忠、丸紅の創始者で、近江商人の筆頭にあげられる伊藤忠兵衛の屋敷を一般公開しています。伊藤忠兵衛は、貿易、銀行、造船、保険業なども手 がける一方で、豊郷村の村長を務めるなど郷土のためにも尽くしました。中山道に面し、「見越しの松に黒い塀」が目印になっています。(滋賀県データより)

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