関ヶ原の合戦

関ヶ原といえば、古戦場で知られます。歴史で名高いこの戦いはあえて紹介するまでもありませんが、名神高速でここを通過するにあたっては避けて通れない話でもあります。

バスガイドが話すのはこんな風なのだと思って読んでみてください。

慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉が伏見城で亡くなり、朝鮮出兵の失敗で動揺していた豊臣政権に致命的な打撃を与えました。

豊臣氏の勢力は衰え、政権の基礎は不安定となり、しかも秀吉の子、秀頼はまだ幼かったのです。秀吉の晩年から五大老(上杉景勝、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家(小早川隆景が死んで上杉が入る))の筆頭として声望のあった家康が1人盛んになり、内大臣として秀吉亡き後の実力者となりました。

この家康に対抗して、五奉行のひとり石田三成は(他に前田玄以、長束正家、浅野長政、増田長盛)、毛利輝元を盟主として会津の上杉景勝と計り家康を倒そうと計画しました。

五大老の1人であった上杉景勝が領国会津で兵を挙げ、家康がこれを討つため東へ向かった留守に、三成が挙兵して戦端が切り開かれました。

三成ら西軍は毛利輝元、宇喜多秀家、島津義弘、小西行長、長宗我部盛親、大谷吉継、安国寺恵瓊らで、東軍は家康の家臣と福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、池田輝政らが加わりました。

時に慶長5年9月15日、東軍西軍合わせて10万、関ヶ原の夜がほのぼのと白む頃、ようやく雨もあがり、大地は深い山霧に覆われていました。厚い雨雲に閉ざされた伊吹の山から吹き下ろす風は肌を刺すように冷たい。それでも8時頃には霧も晴れ上がり、秋の日差しが雨上がりの高原に満ち満ちし、両軍の旗や幟は峰から谷へと続き、殺気は天地を覆い、いよいよ戦闘開始です。

戦いは一進一退、午前11時頃になって戦闘はますます激しさを加えました。人馬は一団となって津波のように押し寄せては引き、関ヶ原の平原はどす黒い血に色取られ、屍累々山をなしたといわれます。

午前中は西軍やや有利でしたが、午後から西軍はじりじりと東軍に圧迫され、ついに松尾山に陣を構えていた石田方の小早川秀秋(秀吉の正妻ねねの兄の子)が、かねてより家康に内応する約束を交わしていましたが、ようやく決意し、全軍山を下りて味方の大谷吉継の陣に向かって突撃したのです。

味方の裏切りによって腹背に敵をうけた西軍は乱れに乱れ、散々に敗れ果てて蜘蛛の子を散らすように敗走しました。

午前8時から午後3時にかけて激戦が繰り返され、7時間の戦いで東軍が大勝利を収め、家康はここに天下の実権を握ることが出来ました。

戦後、小西行長、安国寺恵瓊、石田三成らは捕らえられて、京都の六条河原で処刑されましたが、三成は死に臨み、「勝負は時の運なれば、恥ずるに足らず」と笑って死んだといわれます。

関ヶ原の合戦で最も悲壮にして激烈だったのは、大谷形部の最期と島津義弘の必死の戦線脱出でしょう。

大谷吉継は少年の頃より秀吉に仕え、合戦当時は越前敦賀の城主で、ハンセン病にかかり、ほとんど目は見えませんでした。

はじめ家康の上杉征伐に従軍しようとして、出陣の途中近江の佐和山城にいる友人の石田三成に共に出陣するよう勧めました。ところがかえって三成から挙兵の陰謀を知らされ、ついに友情を断ち切れず、三成と共に兵を挙げることになった悲運の武将です。

決戦当日、小早川秀秋が東軍に応じて大谷陣に攻め込みましたので、吉継は見えぬ目に軍配を握り、駕籠に乗って兵を指揮し、敵300余人を倒しました。この時家臣の平塚為広は「名のために捨つる命は惜しからじ ついにとまらぬ浮き世と思えば」と和歌を添えて吉継に送り、吉継は死期を示す為広の歌に閉じた瞼からはらはらと涙を落とし、「契りあらば六の巷に まてしばし おくれ先立つ事はありとも」と返歌しました。

為広はニコリと笑ってうなずくと 「平塚因幡守為広の最期をみよや」と大声でよばわって適中に突進し、壮烈な戦死を遂げました。吉継も死を決し、籠から下りて鎧を脱ぎ、手探りで刀をとって腹をかき切ったということです。

西軍の諸隊がが全滅となった頃、島津義弘の率いる薩摩隼人の一団だけが関ヶ原の戦場にとどまっていました。義弘は全軍玉砕の覚悟をしましたが、甥の豊久が涙ながらに戦線脱出を説きましたので、義弘は残兵500人余りを率いて、正々堂々家康の本営の真前を横切り、あっと言う間もなく南方の伊勢街道に道をとりました。家康は本営からあっぱれな島津勢の行進を見て「さずが島津入道じゃ」と舌を巻いたということです。

家康が征夷大将軍になり、江戸幕府を開いたのは関ヶ原の合戦後わずか3年で、15年後には大阪夏の陣で豊臣家は全く滅び去ったのです。

激しい戦いの跡は今は雑草に覆われ、苔むした石碑に亡き武将の往時を偲ぶのみです。

石田三成の顔

石田三成は関ヶ原の合戦後、京都の六条河原で斬首され、その首は三条河原でさらされた後、大徳寺三玄院に葬られました。明治40年、三成のものと思われる墓が発掘調査され、復願肖像画が作られています。

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