木地師のふるさと

愛知川をさかのぼった鈴鹿山脈に近い滋賀県東近江市の君ケ畑にある大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)と蛭谷にある筒井神社は、全国の木地師の発祥地として知られています。
御祭神はどちらも惟高親王です。

惟高親王は55代文徳天皇の第一皇子でしたが、母親の身分が低かったため、藤原氏から入内した女御に惟仁親王が誕生すると皇位継承に勝ち目はなく、身の危険を感じて鈴鹿山中へ逃避されました。

親王は巻物のひもにヒントを得て考えついたといわれる「ろくろ」の技術をこの地の人々に教え、その技術を持った木地師が全国へ渡っていったというお話です。

木地師とはトチなどの木を材料として、ろくろを使いお椀などの木工品を作る技術者のことをいい、木地屋と呼ばれることもあります。この辺りの地名は昔、小椋庄(小椋村)といい、木地師のほとんどが小椋姓を名乗っていました。

「こけし人形」は東北の木地師が始めたものとされますが、その東北の木地師は近江の蛭谷の出身で、小椋木地師が蒲生氏郷について東北に移ったのです。

木地師は惟喬親王を祖と仰ぎ、近江国愛知郡小椋庄に住む木地師一門を本家とし、地方に散在する木地師すべてを分家とし、君ケ畑の大皇器地祖神社か蛭谷の筒井神社のどちらかに氏子として所属していました。この2つの神社が全国の木地師を支配していたのです。本家の木地師は何年かに一度小椋庄に戻り、分家は一生に一度は本山訪問することを願いました。

明治までは木地師は全国のどこの山に入っても良く、山の8合目以上の木は切っても良いという許可を得ていました。彼らは近江国小椋村の君ヶ畑、蛭谷を原籍地として、ジプシーのように全国の山を20~30年ごとに移動しながら生活をしていたのです。

しかし、明治になるとそれまでのように勝手に山に入ることが出来なくなり、廃業したり転職したりするものも多く、また一部の森林豊かな地域に定着していったのです。

蛭谷の筒井神社には木地師資料館があり、ここにある資料によると、正保4年(1647)から 明治15年(1882)までの236年間に、木地師の名が4万9990人記されており、また君ケ畑の金龍寺には、元禄7年(1694)から明治26年(1893)までの200年間の巡国記録で、30ヶ国・9734人に及ぶ木地師の名が載っています。

君ケ畑という地名は、惟高親王がこの地で没したことに由来し、太皇器地祖神社、金竜寺、惟喬親王御所(高松御所)があります。金龍寺では現在でも不定期的ではありますが、全国から木地師が集まり親王の法要が行われるそうです。

小椋という姓の方のご先祖がみな木地師というわけではないでしょうが、関連がある可能性が非常に高いと思われます。木地師は非常に誇り高く、決して農民と結婚しようとはしなかったそうです。そのため同族婚、つまり小椋姓同士で結婚することが多かったからです。
実際に東北や長野、それ以外の地域でも木地師の里と呼ばれるところには小椋姓を名乗る方が多いです。(木曽は大蔵姓の方も多かったようです)

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コメント

  1. 大平卓 より:

    続き、今はひっそりしてますが、ネットなんかみて、改めて凄いと思いました!でーなんか本家なんだか 、春日局と同じ墓にあるようです!親せきなんかのお墓の紋みても 、葵の紋、五三桐、井伊橘、おもだか、梅鉢、違い鷹の羽がありました。母方は井伊橘です!なんか上の方のサムライだったのかな?

  2. 大平卓 より:

    母方が小椋で福島の会津と喜多方です!やはり田舎人は知ってるみたいで、木地師だけじゃなくサムライ、とか源氏とか、大奥で働いていたとか、葵の門持ってあっちこっち行けたようです。音楽家の小椋圭さんに芸名つけたのも家みたいです!

  3. 小椋好一 より:

    確かに父の実家が、埼玉に住んいた広大な山がうちの裏山でした、3〜4回遊びに行きました、又家にも丸太から削り出した大きなうつわがまだ家にあります。父からよく聞かされましたが、今わいません、なんか懐かしく思い小椋のルーツが、感動です、有難う御座いました。

  4. kabocha より:

    こんにちは!
    思わずのコメントありがとうございます。
    皆さん多分同じように「思わず…」な気持ちになっていただいているのでしょうか。
    ここのページのコメント欄だけは少しずつですが、ルーツを同じくする方のつぶやきの場所にしていただけているような気がします。

  5. 小椋 より:

    私の祖父の兄弟には木地師がいました。キビキろくろは今でもあります。おじさんが調べるとかなり古くまで遡れました。何気なくお邪魔した記事に、私聞いていた小椋家の由来と全く同じなので驚きました。山の8合目以上とか。思わずコメントしてしまいました。

  6. 清水 利枝 より:

    戸籍を知れべたら君ヶ畑から移ってきたと書いたありました。ますます木地師の末裔だと驚き

  7. kabocha より:

    清水さん、書き込みありがとうございます。
    代々伝わる伝承とかって何だかカッコイイなーと思ってしまうのは不謹慎なんでしょうかね(汗)。
    ミステリーな感じがします。

    今住んでいるところや職業が違っても、名前だけで親近感が湧いたりするものなのでしょうか?
    ふとそんなことも思ったりします。

  8. 清水 利枝 より:

    私も木地師の血が流れているんだなあ?。祖父は大蔵姓です。早くに死んだ父の話が最近本当だったんだなあと思いました。菊の紋と桐の紋そんな話を母から聞きました。

  9. kabocha より:

    武内さん、返信が遅くなってすみません。

    大変興味深いコメントをありがとうございます。

    『脊梁山脈』、ぜひ読んでみたくなりました。

    この木地師のふるさとという記事を書いてから、色々な地域の小椋さんや関連の方々、子孫の方々にコメントをいただくことができ、私にとっても「木地師」という響きは特別な存在になっています。

    紹介いただいた乙川優三郎氏の「脊梁山脈」は、評価が高いようですね。あまり高尚な文学作品を読んだことがないので、読みきれるかどうかわかりませんが、近いうちに手にとってみたいと思います。
    ありがとうございました。

  10. 竹内信夫 より:

    拝啓 作家の乙川優三郎さんのファンです。氏の最新作『脊梁山脈』を読み、「木地師」という日本古来からの歴史のある方たちの集団の存在を改めて知ることが出来ました。作品を読み進むうちにそうした方々の苗字に小椋、大蔵が多いこと、作品の主人公・矢田部信幸が上海から復員の途中、同じ復員兵・小椋康造から受けた恩義と誠実さを深く心に留め、帰国後「小椋康造」を訪ねる旅が展開されます。作品は意外な展開に及び、彼・矢田部の調査の過程で木地師の成り立ちに朝鮮半島から渡来した秦氏と日本古代王朝との深い繋がりに触れ、考古学者・江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」へとスケールの大きな展開となります。
    私自身も古代史に興味があり、古田武彦の著作集、司馬遼太郎・上田正昭・金達寿の「古代日本と朝鮮」、金達寿のシリーズ「日本の中の朝鮮文化」などを読み重ねております。
    今までに訪れた東近江市の永源寺、信州・南木曽など「木地師」のゆかりの地であることも知ることが出来ました。
    何よりも感動させられたことは、作品の中で主人公の調査の旅先で出会う
    木地師の里で出合った多くの人達が、皆揃って私たちが長く忘れていた「無口な中での優しさ、純朴さ、素直さに満ちた人柄の持ち主」でした。今年76歳の私の子供時代、近所の年老いた人達の姿を記憶の中から思い出させてくれました。
    とんだ感想を述べさせて頂き、何か関係者の方たちにご迷惑をお掛けしたのではないかとの想いがあります。そうであればお許し下さい。