木曽三川

木曽三川とは、濃尾平野を流れる木曽川長良川揖斐川の3つの川を指します。

かつてこの3つの川は、合流、分流を繰り返し、多くの水害をもたらしました。つまり現在のように3本の川がいつも同じ所をながれているのではなく、大雨で洪水を起こす度に、川が2本になったり、また5本になったり、流れる場所も変わってしまうのです。当然その結果として、家も田畑も流されてしまうわけです。流域の人達はいつの時代も、この水との戦いに苦労してきたのです。

明治時代に行われた大規模な分流治水工事によって、ようやく現在の三川の姿になりました。

宝暦治水工事

木曽三川の治水工事は、豊臣秀吉の時代に、木曽川の尾張側に堤防が造られたのが始まりで、次いで慶長15年徳川義直により、現在の犬山から弥富までの48キロに及ぶ堤防が築かれましたが、これはまさに尾張藩を囲むように造られており、「御囲堤(おかこいてい)」と呼ばれ、他の土地の者にとっては大変迷惑な代物だったのです。

宝暦3年(1753)の大洪水の後、徳川幕府は水害に苦しむ人々の声を聞き、薩摩藩に木曽三川の治水を命じました。これは西国外様大名の筆頭である薩摩藩の力を弱める意図が大きかったのです。徳川幕府は、大名達が富を蓄え、勢力を増大させるのを防ぐために、度々大工事を大名達に命じました。

薩摩藩では、宝暦4年、平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として工事に着手しました。
工事は難儀を極め、大雨により工事途中の堤防は流され、幕府の方針で度々工事の計画が変更になったりしました。薩摩藩では、家老以下約1000名の人数を送り込み、土地の人夫1000名ほどを雇って、この難工事に挑んだのです。

宝暦5年3月、工事は完成しましたが、これにかかった費用は約40万両といい、今のお金に換算すると約200億円か300億円に相当すると思われます。

また困難を極めた工事の最中に薩摩藩士は51名が割腹し、33名が病死しました。割腹した者の多くは、はかどらぬ工事の責任を感じてのことですが、中には幕府の役人の嫌がらせに憤って切腹して果てた者もいたようです。

工事終了後、総奉行の平田靱負は、多くの藩士を亡くし、藩に多額の借金をさせた責任を一身に背負って切腹してしまいました。彼は「住みなれし 里も今更名残にて 立ちぞわずろう美濃の大牧」という辞世の歌を残しています。

工事完成後、検分に立ち会った幕府の役人ですら、「日本の内は申すに及ばず、唐にもこれほどの事はあるまじ・・」と感嘆したほどの難工事であり、見事なできばえだったのです。

1900年(明治33年)の近代土木技術における分流工事完成時に、宝暦治水碑が千本松原南端に建てられました。さらに1938年(昭和13年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を、「祭神」として顕彰するために『治水神社』が建立されています。(国営木曽三川公園の木曽三川公園センター南)

千本松原と治水の碑 (画像提供:(社)岐阜県観光連盟)

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