杭瀬川

名神高速道路上り線の養老SAを過ぎてしばらくすると、杭瀬川(杭瀬川)を渡り大垣市に入ります。

杭瀬川は明治の初め頃、川柳を沿岸に移植したために、ゲンジボタルが集まり、ホタルの名所となったところで、谷崎潤一郎の「細雪」に、この川でのホタル狩りの場面が出てきます。

杭瀬川のホタルは一時絶滅寸前になっていましたが、1974年に「杭瀬川ホタルを守る会」が結成されて以来、多くの人々の努力で甦りました。「ふるさといきものの里100選」のひとつに選ばれています。

ゲンジボタルが観賞できる場所:大垣市中島橋周辺

【参考】
平治の乱で平清盛に追われた源義朝(源頼朝・義経の父)が、この川を柴舟に身を隠しながら、尾張の知多郡内海へ逃げたと言われます。

義朝37歳、長男悪源太義平19歳、次男朝長16歳、三男頼朝13歳でした。
頼朝は雪の関ヶ原ではぐれ、その生死も知れなくなり、朝長は合戦の際に矢傷を受けて動けなくなりました。
「おまえを助けておいたら、敵に捕まって恥をさらすだけだろう。いっそ父が手にかけて、あの世に送ってやろうと思うがどうだ。」と言うと、朝長は「こんな体になって生きていても、どうにもなりません。敵の手にかかるより、その方が本望です。」と答えました。
義朝は涙をこらえて、16歳になったばかりの息子の胸を三度まで指しました。

長男義平は飛騨国に隠れ、時期を待って兵を挙げるため、父の一行と行動を別にしました。

義朝が内海で頼っていった先は、源氏の譜代の家人、長田忠政の家でした。長田は義朝の家来、蒲田正清(正家ともいう)の妻の実家で、気心の知れた家へ来てやっと落ち着くことができました。

しかし長田忠政は「義朝の首を取って平家から褒美をもらおう」と心変わりしたのです。
そして義朝に風呂を勧め、家来の金丸王が義朝の衣服を取りに行ったすきに、裸の義朝を切ったのです。

一方、頼朝は雪の伊吹で清盛の家来に捕らえられましたが、清盛の継母・池の禅尼の行為で命を助けられ、伊豆の蛭小島に流されました。頼朝を生かしておくことに、いくらかのこだわりを残していた清盛は、この時43歳の男盛り、いつまでも13や14の子供のことを覚えている暇はありません。
しかし、のち清盛という巨星が落ちた後、時代は頼朝へと移り変わってゆきます。

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