みかん(1)

こんにちは!
いちごに続いて今日は果物第二弾「みかん」についてです。
みかんの話をする時に、よく登場するのは田道間守(たぢまもり)と紀伊国屋文左衛門です。
紀伊国屋文左衛門といえば、江戸時代に和歌山から江戸にみかんを運んで大もうけした人物で、年配の人なら大抵名前くらいは知っているはずです。決して書店の紀伊国屋とは関係ありません。
紀文(紀伊国屋文左衛門)は元禄時代の和歌山に住んでいた人物です。
ある年和歌山では、みかんが豊作だったのに、嵐が続いて江戸にみかんを運ぶ船を出すことができず、みかんの値が暴落していました。
江戸では毎年「ふいご祭り」というのがあって、旦那衆がみかんを投げばらまく習慣がありました。でも紀州からのみかんが届かないために、江戸ではみかんが高騰していたのです。
紀文は安いみかんを買い入れ、壊れかけた船を買い取って修理し、嵐をものともしない荒くれの船乗りを雇い入れ、死出の旅を覚悟して、みかんを積んだ船を下津の港から出港させたのです。
何度も転覆しそうになりながらも、みかん船は江戸に到着。
沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国みかん船
みかんは飛ぶような高値で売れました。その後、さまざまなアイデアを使って紀文は豪商として名を残すことになったのです。
一方の田道間守はもっと古い時代の人物で、11代垂仁天皇の命で常世の国に渡り、不老長寿の実といわれる非時の香菓(ときじくのかぐのこのみ)を10年かかって持ち帰ったのですが、すでに垂仁天皇は亡くなっており、陵の前で泣きながら亡くなったといわれます。彼は垂仁天皇陵の陪塚(ばいちょう)として壕の中の小島に葬られているとされます。
非時の香菓は橘の実のことで、これが現在のみかんの原型だというお話です。
この田道間守が持ち帰った橘は奈良県明日香村の聖徳太子誕生地の橘寺と垂仁天皇陵に植えられているということになっていますが、この話自体が伝説の域を出ません。
ちなみに御所の前に右近の橘(と左近の桜)が植えられるようになったのは、このお話からだという説もあります。
紀文にしてもあまりに伝説的で、実在の人物ではないのかもという話があります。この2人の人物については謎ですねぇ。
私は小さい頃にみかんが大好きでよく食べてました。たぶん一日に15~20個くらい・・・(汗)。
母親の実家が愛媛県で、よくみかんを送ってきてくれてたせいもあるのですが、それでも足りなくて果物屋さんで毎日のように買っていたようです。
そのおかげで体が黄色くなっていたらしいんです。(みかん食べ過ぎると普通に手とか黄色くなります。)現在はその反動で、あまり食べなくなってしまいましたが。
幼稚園の時、年末に風邪を引いて病院に行ったら、「この子は黄疸が出ています。」と言われ、強制入院させられて、お正月を病院で過ごしたという悲しい思い出があります。(ヤブ医者め!)
あめ玉もジュースも何でもミカン入りが大好きでした。本当に最近はそんなにミカンにこだわらなくなったんですが、「フルーツカルピス」シリーズのみかん&カルピスはけっこう好きです。
明日の話もミカンですよ~~(笑)

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