大垣市

杭瀬川を渡ると大垣市に入ります。
実際にはすでに関ヶ原ICを過ぎたところで、一度大垣市を通っているのですが、それは平成18年(2006)に旧大垣市が墨俣町、上石津町を合併したためです。この2つの町は直接旧大垣市とは接していないために飛地になっています。そのために名神高速道路では、大垣市のカントリーサインを2回見ることになるのです。

西美濃の中心である大垣市は、人口約16万人で、岐阜県第二の都市です。
ここは水の都と呼ばれるように、水が豊富で、市内にはきれいな地下水がこんこんと湧き、水温はほぼ一定で、夏は冷たく冬暖かく、市民に喜ばれています。

1535(天文4年)、大垣城が築かれてからは、近畿地方への入口であり、関東を抑える要害の地でもあり、特に関ヶ原の合戦には重要な役割を果たしました。

江戸時代には、戸田氏10万石の城下町でしたが、小藩の分立している美濃国では随一の大藩で、市内を南北に流れる杭瀬川、水門川に囲まれて、水運の便が良く、文化・経済のあらゆる面で西美濃の中心地でした。

大垣城

名神高速道路からは見えませんが、道路の左手北側の大垣市中心部に大垣城があります。

大垣城 「画像提供:(社)岐阜県観光連盟」

大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。その後、戸田氏が十万石で入城し、明治まで戸田氏の治世が続きました。
昭和11年(1936)に国宝に指定されましたが、昭和20年 (1945)7月戦災で焼失。昭和34年(1959)4月、4層4階の天守閣が再建され、「城下町・大垣」のシンボルとして市民に親しまれています。

また豊臣秀吉の時代に天守閣が作られましたが、その際に山伏を人柱にしたという伝説が残っています。

墨俣城

墨俣城もまた、名神高速からは望むことはできませんが、この先渡る長良川の上流、旧墨俣町の区域に大垣市墨俣歴史資料館として作られた天守閣形式の建物があります。

墨俣城1 「画像提供:(社)岐阜県観光連盟」

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が一夜にして築いたとされ、「天下人」への出発点になったと言われるのが墨俣一夜城ですが、現在あるのは、1991(平成3)年に建設されたもので、実際にあった一夜城とは全く別のものです。
かつての一夜城は砦のようなものでしたが、現在の姿は1対の金のシャチホコが輝く鉄筋コンクリート製の4層6階建ての天守閣で、地域のシンボルとなっています。

墨俣城2 「画像提供:(社)岐阜県観光連盟」

墨俣一夜城は、天下統一を目指す織田信長が1566(永禄9)年に斎藤勢の居城だった稲葉山城(現在の岐阜城)の動きを眺望できるようにと計画し、この大役を藤吉郎に命じました。藤吉郎は小牧・犬山方面から木曽川で資材などを運ばせ、一夜にしてこれを築城。これによって信長は翌年、難攻不落といわれた稲葉山城を攻め落とし、藤吉郎も出世街道を一気に駆け上がっていくことになったのです。

奥の細道結びの地

奥の細道むすびの地(蛤塚) 画像提供:(社)岐阜県観光連盟 

蛤のふたみに別れ行く秋そ

俳聖松尾芭蕉がこの地で読んだ、俳諧紀行「奥の細道」のむすびの句です。
元禄2年(1689)3月27日、江戸深川を出発した芭蕉は、門人曽良とともに奥州から北陸を経て、ここ大垣で約5ヶ月の「奥の細道」の旅を終えました。9月6日には俳友の谷木因(ぼくいん)や近藤如行(じょこう)ら大垣の俳人達に見送られ、伊勢神宮の遷宮参拝のため、水門川の船町港から桑名へ船で下りました。

※大垣市役所から南へ約400m

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