斎藤道三

さて、名神高速道路上り線で長良川を渡れば次は木曽川、この川を渡ればもう愛知県です。残すICも一宮ICと終点(起点)の小牧ICだけとなりました。

木曽川を渡る際には、北側(左前寄り)に岐阜城のある金華山が見えます。(ここからの場合、お城の姿までは確認できません)
岐阜県の県庁所在地である岐阜市は、名神高速道路では通過しません。東海北陸自動車道が岐阜市内を通っているので、いずれその項で紹介したいと思います。いつになるかわかりませんが(笑)。

岐阜城と言っても、あまりピンときません。織田信長が一時住んだお城と言っても、一般人には「へぇ」くらいのものです。しかし、斎藤道三のお城といえば、「ああ、そうか」と言う人は多いのです。そこで今回はこの斎藤道三について紹介してみたいと思います。

斎藤道三は明応2年(1493)、京都の西の岡、今の長岡(向日市)で生まれました。

父は松波基宗といい、北面の武士でした。峯丸のちの道三は、子供の頃から大変利口だったため、父は将来ただならぬ人物になると可愛がり、「戦国の世では出家させるのが安全で出世も早い」と考え、11歳の時に妙覚寺の日善の元へ弟子入りさせ、法蓮房と名乗りました。

僧としても優れた力量を発揮しながら、法蓮房は寺を出てしまい、松波庄五郎と名乗って、灯油商・奈良座又兵衛の娘・お万阿と結婚、一転して油商人となりました。

普通油売りは、油壺からマスで汲みだした油をお客の壷へ移す時、ジョウゴで受けるのが普通ですが、庄五郎は永楽銭を壷の口に乗せ、その小さな穴を通して油を注ぎ込んで見せました。
高々と持ち上げたマスから糸のように垂らした油が、もし銭を汚したら油の代金はいらないと口上を述べ立てながらの街頭販売、もともと弁舌には自身があり、大道芸人まがいの商法は大当たりし、油は飛ぶように売れました。

後、奈良座を乗っ取って山崎屋と改め、お万阿に「わしは国を盗りにゆく」と言い残し、美濃へ出かけました。かつて、妙覚寺で弟弟子の南陽房が、今は日運上人の名で住職をつとめている常在寺を尋ね、強力な後ろ盾を得ました。

美濃では美濃源氏の土岐氏が守護職でしたが、土岐政房が亡くなり、兄・政頼、弟・頼芸が家督争いをしており、庄五郎は長居長弘によって頼芸に引き合わされました。頼芸は酒宴を好み、派手な性格で「おもしろい奴」と庄五郎を召し抱えました。
庄五郎のちの斎藤道三30歳、頼芸23歳でした。

油商人・松波庄五郎は西村勘九郎と名を改め、本巣郡軽海に初めて知行地を得ました。「国を盗る」と志を立ててから数年、勘九郎は野望実現の足がかりをつかみました。頼芸は今や勘九郎の意のままで、大永6年12月愛妾・深芳野を与え、深芳野は翌年6月男子を出産、これが後の義龍です。

また自分に箔を付けるため、東美濃の名門である明智家から小見の方(光秀の叔母)を迎え、正室としました。4年後、この小見の方に1人の女児が生まれますが、これが後に織田信長に嫁ぐ濃姫(帰蝶の方)です。

天文11年(1542)、道三はついに国盗りの最期の仕上げを頼芸に向けました。大桑城を不意に襲撃された頼芸は、身をもって逃れ、尾張の織田信秀を頼りました。兄・政頼を追いやって家督を相続した頼芸でしたが、15年間の後に美濃一国を失うことになってしまったのです。兄は越前、弟は尾張と美濃源氏の名門の悲惨な末路でした。

道三の頼芸追放は美濃の国中に一代波紋を巻き起こしました。道三は自分は引退し、家督を義龍に譲る宣言をして憤激する美濃衆を説得しました。さらに天文18年道三の娘・濃姫を織田信秀の嫡子、信長に嫁がせて同盟を結びました。

道三と深芳野の間には、義龍と孫四郎(竜三)、喜平次(竜之)がいましたが、義龍は頼芸の子で道三の実子ではなかったとも言われます。そのため義龍は、道三が実の父頼芸を追放した張本人であるから、「ぼんやりとしていたら殺されてしまう」と案じ、体が悪いと引き篭もり、使者を立てて「兄君、病重く、遺言しておきたいと仰せである」と偽って弟2人をおびき寄せ、だまし討ちにしてしまいます。

道三は当然のごとく激怒し、国中に軍馬・兵を集めましたが、やっと2700人。義龍側1万7500人。これまで人を謀り続けてきた道三でしたが、家督を継がせるつもりだった2人の実子は殺され、彼自身63歳にして初めて人に謀られる怒りを味わったのです。

弘安2年(1556)4月18日、長良川畔で義龍と戦い(長良川の戦い)、20日夕刻、遠寺の晩鐘を聞きながら夕靄にかすむ稲葉山城下、長良川の畔で悲壮な最期を遂げたのです。
力で力を制する戦国乱世のならいとはいえ、余りにも無情な世でした。

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