子規堂

前回、正岡子規について紹介しましたが、その正岡子規ゆかりの愛媛県松山市にある子規堂についてのお話です。
子規堂は松山市の伊予鉄道松山市駅から徒歩5分ほどの正宗寺というお寺の境内の中にあります。
このお寺は松山藩主・松平公が桑名から移られた時に建立した由緒あるお寺で、ここの住職であった仏海和尚と子規が懇意であったことから、のちに子規堂がつくられました。

子規が17歳で上京するまで過ごした家は、松山市内中の川筋(湊町4丁目)にありました。その正岡家の旧宅を真似て建てられたものです。中の川筋の家が取り壊された時に記念のため、その用材の一部を用いて、大正15年3月正宗寺の境内に復元されました。その後2度の火災にあって、現在のものは昭和21年に再建されたものです。

見所を一部抜粋して紹介します。

子規の句碑
本堂前にある子規の句碑には「朝寒や たのも(う)とひびく 内玄関」とあります。明治28年愚陀佛庵で夏目漱石と一緒に生活していた子規が、村上霽月の元に訪れる途中、親友だったこのお寺の住職・仏海禅師を誘うために訪ねた時の様子をそのまま句碑にしたものです。句碑の文字は「散策集」の筆跡を拡大したものです。

子規と野球の碑
野球は明治17年頃、アメリカ人によって日本に伝えられ、まず各大学にベースボールクラブができました。子規も大学予備門時代は捕手として活躍しました。長袖シャツに半ズボン、足はゲートル、角バットを持った子規の写真が碑に刻まれています。彼は4番でキャッチャーだったそうですが、人にあれこれ指図するのが好きだったので、キャッチャーを好んだそうです。子規は英語の野球用語を日本語に訳し、野球の日本社会への定着に貢献しました。また子規の幼名は升(のぼる)と言いましたので、ノボルの野にボールの球で「野球」と訳したとも言われます。(一般的にはベースボールを野球と訳したのはこれより後、中馬庚が始めとされます。)

坊ちゃん列車
広場には坊ちゃん列車の客車があります。坊っちゃん列車とは、伊予鉄道が明治21年10月28日、松山~三津間に日本で最初に走らせた軽便鉄道です。お米が1升4銭5厘の当時、ドイツから輸入した機関車2両が、当時のお金で9700円、現在のお金で約2億円弱くらいと考えられます。
ある時は強い風に吹き倒され、またある時は牛に衝突して脱線したこともあるそうです。
明治28年東京から来た夏目漱石が、定員わずか12名のこの列車を「マッチ箱のような列車」と、小説「坊ちゃん」に紹介したところから「坊ちゃん列車」と呼ばれるようになりました。

高浜虚子の碑
「笹鳴きが 初音になりし 頃のこと」
俳句雑誌「ホトトギス」が昭和21年に600号となった記念に高浜虚子が作った俳句が刻まれています。笹鳴きが次第に成長して一人前のホトトギス(ウグイス)になるように、俳句雑誌「ホトトギス」も600号となり、立派になったことを讃えたものです。
※ホトトギスは初めはか細い声で鳴くが、血をはきながら苦しい思いをして、やっと素晴らしい鳴き声になる。ホトトギスの本も苦労続きだったが、600号を迎えてやっと本物になったという意味。(ちなみに本当にホトトギスが血を吐くわけではなく、鳴く時に赤い舌が見えるので、そういう風に考えられたそうです。)

※俳句雑誌「ホトトギス」は明治30年1月、柳原極堂が子規の支援によって松山で創刊した俳句の本で、20号までは極堂が発行。その後高浜虚子が受け継いで、東京で発行した。子規没後も「ホトトギス」を編集して、夏目漱石にすすめて明治38年1月から「吾輩は猫である」を連載し、異常な反響を呼び、これが漱石の小説家としての出発点となる。

子規埋髪塔
1902年(明治35)9月19日、子規が東京の子規庵で無くなった時、仏海禅師は大変悲しみ、家族に子規の遺髪をもらい受け、ここに埋めたのです。明治37年3周期にこの埋髪塔が建てられました。石に刻んである肖像画は、松山出身の画家・下村為山が描いたものです。
※埋髪塔の後ろに「正岡家累代の墓」があります。(子規の父、正岡常尚の命日が刻まれている)

子規堂内部
子規の住んでいた家の一部である8畳の書院をそのままここに移し、後世に長く保存しようと建てられたものです。その後、火災や戦災にあい、3度目に建設されたのが現在の子規堂です。
玄関を上がると、左手に3畳の書斎があり、子規が勉強していたところです。子規の肖像画の上に絶句三句が書かれた額があります。
玄関の右には茶の間と台所があり、陳列ケースの中に夏目漱石ゆかりの品が納められています。
奥に8畳の書院があり、子規の和歌が書かれた掛け軸や、子規の朝顔の絵、陳列ケースに子規の遺品が並べられています。
この書院には子規が門弟を八百屋に並ぶ品に例えた「発句経比喩品」が書かれた短冊が飾られています。一部紹介します。

  • 鳴雪君(内藤鳴雪)
  • 「卵 滋養あり 子供にも 好かれる」
    彼は俳句の上では子規の弟子でしたが、年上だったので悪く言えず、他の人のことはほとんどけなしているのに、彼だけはほめられています。

  • 碧梧桐君(河東碧梧桐)
  • 「つくねいも 見事にくっつきおうたり 今少し離れたる処もほし」
    碧梧桐は当時新婚で、いつも奥さんを連れて句会に出席し、仲の良いところを見せつけるものですから、他の門弟から苦情が出ており、このように言って諭しました。

  • 虚子君(高浜虚子)
  • 「さつまいも 甘み十分あり 屁を慎むべし」
    俳句の才能は良いのだが、時々出しゃばりすぎるから、もう少し慎みなさいと注意しています。

  • 漱石君(夏目漱石)
  • 「柿 うまみ沢山 まだ渋の 抜けぬも混じれり」
    まだ渋柿のようだけど、君の才能も渋が抜けて申し分なくなり偉大な作家になるだろうと言っています。(坊ちゃん育ちのワガママを渋に例えている)

彼の比喩は面白いですね~。他にもまだまだあるのですが、実際には達筆すぎて何書いてあるのかわからないんです(汗)。

正岡子規?ああ「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の人だよね?くらいの知識で、ここに見学に来た場合は、なんか狭いところだなぁ・・くらいの印象で帰ってしまうかもしれません。
正直私も「子規堂」といえば、狭いくせに説明することがいっぱいあって、好きなところとは言えませんでした。でも「坂の上の雲」のドラマを見て、やっぱり少し考えが変わりましたね。今だったらものすごーく熱心に説明しちゃうかも。行きたいな~。写真撮りに(笑)。

少々細々と説明しすぎたので、愛媛県のガイドさんに怒られるかもしれませんが、子規堂は見所いっぱいなのに、バスガイドがいなければ残念ながら見落としてしまうところがたくさんあります。バス以外で訪れた人にも子規堂、松山の良さを知ってもらうために一部紹介しました。ご理解ください。

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