高槻周辺

茨木ICを過ぎてしばらくすると、名神の中でも一番長い下り坂にさしかかります。
下りきったところに高槻バス停があり、それを過ぎると今度は上り坂になります。ここはかつては事故のメッカでしたが、拡幅工事により事故の発生率は低くなり、渋滞の確率も連休を除いては大変低くなりました。

しかし反対車線の下り線は、11月から12月にかけての渋滞が大変多いです。この渋滞を私たちは「夕日渋滞」と呼んでいます。下り線では高槻バス停を過ぎて上り坂になるとき、坂の頂上部分の真正面に太陽が位置するのが11月から12月にかけてなのです。この上り坂の太陽は目がくらむほどの眩しさです。サングラスをかけていないと一瞬何も見えなくなることもあります。このため普段ここをよく通りなれている人でも、スピードを落としてしまい、これが渋滞の原因と考えられています。夕日といっても、上り坂のため、本当の夕日のように赤い太陽などではなく、傾きかけたくらいの状態ですから、光線は厳しいです。15時から16時にかけて渋滞は始まり、その後太陽が沈んでもしばらく渋滞は続きます。この時期のドライブには注意してくださいね。

茨木ICから次の京都南ICまでは約24キロあります。
ずっと以前から、高槻IC建設の要望は大変多かったらしいのですが、残念ながら実現しませんでした。事実はわかりませんが、元々大変な渋滞のメッカであったため、ここにICを作ると、更に渋滞を悪化させるという理由で却下されたと聞いたことがあります。今ならせめてスマートインターチェンジくらい作れそうなものですが、もう土地がないですね(汗)
高槻の住民は名神茨木ICか京滋バイパス大山崎ICを利用するしかありません。茨木ICまで15分なんて案内に書いてあったりしますが、それは空いている時であって、その空いている時が滅多にないものですから大変です。その代わり電車の便がかなり良いです。

名神高速道路、京都南~茨木渋滞などと高速道路に表示が出ていても、滅多なことで高速道路から降りてはいけません。一般道路の方が早かったなどという話は聞いたことがありませんからね。(R1もR171もどちらもです。)

いずれ第二名神高速道路(新名神)の高槻ICが出来るとされていますが、暫定で2018年予定です。この計画どうなるかわからないですけど・・・。

高槻市

右手一帯が高槻市の中心となります。
人口約35万4000人。京都と大阪の中間に位置し、北摂のベッドタウンとして発展してきました。戦国時代には高山右近がキリシタン大名として高槻の城主となり、また江戸時代には永井氏3万6000石の高槻藩の城下町として、また西国街道の宿場町として栄えました。

高山右近

戦国時代の高槻城主・高山右近は、キリシタン大名として遠くヨーロッパにも名が知られた人物でした。海外の文物に通じ、茶の湯に長け、築城にも才を発揮したといいます。
高山氏は北摂・能勢の高山という山あいの荘園代官から身を起こした一族でした。右近の父である高山飛騨守が三好長慶に仕え、歴史の表舞台へ登場したのです。

荒木村重に所属していた高山飛騨守が高槻城主となり、それをついだ右近が明石に移るまでの約13年間、高槻での治世が続きました。右近は熱心なキリシタン信仰と伝道につとめ、高槻の信者は領民2万5000人のうち、18,000人を数え、領内には教会堂20ヵ所も建てられたといいます。

右近はのち明石に転封され、天正15年、九州征伐に従軍中の豊臣秀吉から禁教令が出たため除封され、天正17年金沢の前田利家の元に身を寄せました。

しかし、その後も信仰を捨てず、慶長19年(1614)、徳川家康の禁教令に触れて、内藤如安とともに雪の金沢をはなれてマニラへ追放され、翌元和元年に生涯を終えました。

高槻市内には高槻カトリック教会(高山右近記念聖堂)があります。右近の終焉の地であるマニラ市のかつて日本町のあった地に立つパコ教会を模して建てられたものです。聖堂の前庭には、イタリアの彫刻家ニコラ・アルギーニの作品で、ローマのクラレチアンヌ会総長ペトルス・エシュバイベル師から寄贈された、ひざまずいて祈りを捧げる右近の大理石像があります。

名神高速道路の高槻市のカントリーサインは、この右近の大理石像が描かれています。

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