垂井町周辺

関ヶ原を過ぎ、垂井町へ入ります。

左に続く山が南宮山で麓に美濃国一の宮の南宮大社があります。

南宮大社

金山彦命を祭神とし、金属を司る神であることから、全国の鉱山、金属関係者の崇敬を今も集めています。

南宮大社の名前は、国府の南に位置する宮であるところに由来します。境内には椿の森があり、別名「椿大社」とも呼ばれます。

南宮大社

関ヶ原の合戦の際、この辺りは安国寺恵瓊の陣地となったため、社殿は全て焼失し、現在の建物は寛永19年(1643)、3代将軍徳川家光の命により再建されたものです。

垂井町

南宮大社のあるこの地を垂井町といいます。

古代美濃の国府が置かれ、江戸時代は中山道の宿場町で、美濃路の分岐点にも当たって賑わったところです。また南宮大社の門前町としても発展してきた町です。

近年は隣接する大垣市とともに工業都市への道を歩んできました。町の65%が山林からなり、山間部では干し柿、茶、栗の生産が盛んです。

この垂井には一里塚があります。
江戸時代、慶長9年(1604)から慶長17年にかけて、幕府は主要道路一里ごとに、道の両側に塚を築きました。その塚ごとにエノキを植え、旅人や馬の休息場所や旅程の目安になったのです。

竹中氏陣屋跡

垂井町岩手に竹中氏陣屋跡があります。
永禄7年、美濃岩手城主、竹中半兵衛重治は、稲葉山城を斉藤龍興から奪取して以来、信長の信任厚く、秀吉の参謀として統一事業に貢献し、黒田如水とともにその名を天下に広めました。

重治の子、竹中重門は東軍として関ヶ原合戦に参加し、西軍小西行長生け捕りの功を立て、岩手付近の中山道沿いに5千石を与えられ、旗本となりました。彼は学問、詩文を愛し、林羅山との親交も厚く、以後明治維新にいたるまで、12代ここに続きました。


(画像提供:(社)岐阜県観光連盟)

※竹中重治は三木城のの合戦の際に戦場で病死

牧田川

右手を名神高速道路沿いに流れる川は牧田川といい、岐阜県と滋賀県の県境近く、鈴鹿山脈南端の一角に源を発し、養老山地との山あいをぬって流れ、揖斐川に注ぎます。

美濃国府跡

大化改新(645)によって全国に国府がつくられ、美濃では府中地区一帯にあったといわれています。平成3年からの調査で中心地は御旅神社付近と推定さ れ、当時使われた布目瓦や土器の破片・柱跡が見つかっています。

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