京都市山科界隈

山科に入ると名神高速道路に、「名神高速道路起工の地」と書かれた看板が下り線側の壁沿いに見えます。日本最初の高速道路である名神高速道路の工事はここから始まりました。

ここ山科といいますと、本願寺第八世蓮如上人がお住まいになった山科御坊や大石良雄が吉良邸討ち入り前に隠れ住んだ隠居所跡、小野小町の遺跡で知られる小野の随心院などの多くの見どころがあります。また秀吉が花見の宴を催した醍醐寺は伏見区ではありますが、昔より醍醐地区は山科区と深いつながりがあり、山科盆地の名所として知られています。

随心院

山科の小野は小野氏の栄えた土地で、ここにある隋心院(ずいしんいん)は、小野小町の邸宅跡といわれています。

隋心院は真言宗善通寺はの大本山で、正歴二年(991年)に仁海僧正によって開かれた牛皮山曼荼羅寺の子院のひとつでした。のちに隋心院と改められ、門跡寺院となって栄えた、風格のある格式高い寺院です。

総門を入ってすぐ右手には「はねずの梅」と呼ばれる遅咲きで薄紅色の約230本の梅の木が植えられた梅園があり、通称小町梅園といいます。

応仁の大乱で、ほとんどの伽藍を焼失し、現在の建物は慶長4年(1599)に再建されたものです。

仁明天皇に仕え、歌人として知られた小野小町は、宮中を退いた後にここに住んだといわれます。境内には、小町が姿を写したといわれる化粧井戸や多くの男性からの恋文を埋めたといわれる文塚などもあります。

また毎年3月最終日曜日には、「はねず踊り」といって、小野小町や深草少将に扮した少女たちの踊りが奉納されます。

深草少将の百夜通い(ももよがよい)伝説

平安時代の絶世の美女小野小町には求愛者が大勢いましたが、小町はまったくつれないそぶりでした。しかし、中には深草少将というしつこい男性がいて、無視し続けても全くあきらめようとしませんでした。そこで小町は、彼に無理難題を言ってあきらめさせようとしたのです。
「あなたが一日も欠かさず、毎日百日間私の元に通ってくることが出来たなら、あなたの想いにこたえましょう」と。
深草から山科の小野まで、直線距離で約5キロ。平安時代の高貴な男性たちは、普段の雅やかな生活のせいで、全く体力がなかったそうですから、これは大変な難題だったはずです。
しかし、少将は大いに喜んで、毎日毎夜、文を持って通い続けました。通うといっても、小町が会ってくれるわけではありません。ただ侍女に文を託すだけです。それでも少将は通い続けました。
日が経つにつれて、きっと小町も半分はあきらめ気分で、覚悟を決めていたのではないでしょうか。もしかしたら、更なる難題をだしたかもしれません。しかし最後は思わぬ幕切れとなってしまいました。99日目の夜は雪の降る寒い夜でした。少将は3ヶ月におよぶ無理がたたったのか、雪の中に倒れ伏して、この世を去ってしまったのです。
小町は自分が出した難題のせいで、少将が亡くなってしまったことを悔い、その後どんな男性にも添うことなく、生涯独身を通したといわれます。

百日通うことより、百通の恋文を書く方が大変な気がしますね。
当時のことですから、和歌なんかを書いて送ったんでしょうねぇ。和歌が上手なことがモテる最優先条件だったようですし。

当時の京都の公家といえば、塩分取りすぎ、栄養偏りすぎ、運動不足、不衛生で早死にが多かったそうです。
何かの本で読んだのですが、当時の天皇の中には、にきびからばい菌が入って、顔が腫れ上がり、雪に顔を埋めて「気持ちいい」と言いながら、亡くなった方もいたとか・・・。

お風呂に入ることも滅多になく、髪を洗うのは更に稀であったので、相当臭かったそうですね。それでお香を炊きつけて、体臭をごまかしたというわけです。
たしか、お風呂に入りたくても、歴代の天皇の命日には入っちゃ駄目とか、他にも色々法則があって、自由に入れなかったらしいです。

きっとハエが周りをブンブン飛んでいる状態で、和歌を詠んだりしていたんでしょうね。想像したくないです・・・。

他の記事

スポンサーリンク







シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク